■東北・太平洋沖地震被災の方々Web上書き込みより■

---------- 転送メッセージ ----------<読売新聞より転載 一部抜粋記事>  福島県南相馬市の運送会社員(40)。ワイヤにしがみついて津波の衝撃に耐え、18時間も冷たい水につかりながら助かった。しかし、ようやく戻った自宅で待っていたのは、東京電力福島第一原子力発電所のトラブルによる避難生活だった。次々に降りかかる災難。「津波と原発の二重苦だ。それでも生きていかなければ」。会社員は、そう心に決めている。 「ゴー」。11日午後3時20分頃、仙台港で、運んできた荷物をトレーラーから下ろした直後、会社員の耳に地鳴りのような音が響いた。海の方を振り返ると、数百メートル先に津波が見える。高さ約10メートル、壁のような波の上で、コンテナや車がクルクルと回転していた。 「少しでも高いところに逃げないと」。とっさに、近くに並んで止まっていたトレーラーの中で一番高い荷台に飛び乗った。運転席近くに張ってあった鉄製ワイヤにしがみつく。すぐにたたきつけるような波が襲ってきた。「ダメかもしれない」。何度も流されそうになりながら、ちぎれそうになる指に力を込めて体を支えた。 「助けてくれー」。隣のトレーラーが横転し、荷台にいた同僚が叫び声を上げながら水にのみ込まれた。津波が過ぎ去っても、首から下は水につかったまま。周りを見渡すと、周囲の建物は消え、残骸となった立体駐車場だけが残っていた。 日が暮れた。上空から自衛隊のヘリコプターのサーチライトが付近を照らす。凍えて体に力が入らない。何とか片手を振ったが、気付いてもらえない。余震の度に水面が揺れ、近くで起きたコンビナート火災の「ボン」という不気味な音が暗闇に響いていた。 その時だった。「死ぬんじゃねえぞー」。流されたはずの同僚の声が遠くで聞こえた。同僚は救助され、少し離れた倉庫2階に避難していた。「大丈夫だ」。大声で返す。寒さで意識を失いそうになるたび同僚の励ましの声が聞こえ、気持ちを奮い立たせた。「妻子を残して死ねない」。自分に言い聞かせ、耐えた。 長い夜が明けると、少しずつ水が引いていった。午前10時頃、荷台から下り、水の中をがれきに足を取られながら40分かけて移動し、同僚らのいる倉庫に引き上げられた。 その日、同僚の車で約4時間かけて南相馬市の会社にたどり着いた。心配して社に駆けつけていた妻(36)、長男(10)、長女(2)と抱き合った。自宅は無事という。涙が止まらなかった。「生きていることが自分でも信じられない。こんなことがあるんだと思った」 必死の思いで戻った我が家。だが、「奇跡の生還」から2日後の14日、福島第一原発3号機で爆発が起きた。足は凍傷になっており、医師からは入院を勧められたが、家族と避難することを決めた。「放射能が広がったら危ない。家族を守らないと」 福島市で避難所暮らしが始まった。原発の脅威は増すが、ガソリンが足りず移動手段もない。つらい生活は続く。だが、前を向いて生きようと決めている。「命があって家族といられればそれでいい。みんなで苦しみを乗り越えたい」 読売新聞 3月18日(金)14時42分配信分

---------- 転送メッセージ ----------

日付: 2011年3月17日21:29
件名:yahoo!ブログ: 蘇る日本! 日本を良くすることができるのは、わたしたち日本人です より転載 記事元毎日新聞

---------- 転送メッセージ ----------

 

東日本大震災 「早く逃げて」命かけた防災無線…南三陸> > 毎日新聞 3月13日(日)22時37分配信> > [拡大する]> > 遠藤未希さんが無線で避難を呼び掛け続けた防災対策庁舎(右側の鉄塔付きの建物)。> > 赤い骨組みだけが残っている=宮城県南三陸町で2011年3月13日午後1時11分、比嘉洋撮影> > > > 東日本大震災の発生から3日目の13日、明らかになりつつある被害状況は拡大の一途をたどり、死者が1万人単位に及ぶとの見方も出てきた。難航する救出作業、あふれる避難所、行き届かない食料や物資。福島第1原発1号機の爆発事故で、新たに約8万人の住民が避難を余儀なくされ、想像を絶する巨大地震に襲われた被災地は、大きな不安や疲労に包まれた夜を迎えた。> > 「早く逃げてください」--。街全体が津波にのみ込まれ約1万7000人の人口のうち、約1万人の安否が分からなくなっている宮城県南三陸町は、町役場が跡形もなくなるなど壊滅した。多くの町職員や警察官、消防職員が行方不明となったが、その中に津波に襲われるまで防災無線放送で住民に避難を呼びかけた女性職員がいた。> > 「娘は最後まで声を振り絞ったと思う」。同町の遠藤美恵子さん(53)は、避難先の県志津川高校で涙を浮かべた。娘の未希(みき)さん(25)は町危機管理課職員。地震後も役場別館の防災対策庁舎(3階建て)に残り、無線放送を続けた。> > 難を逃れた町職員(33)によると、地震から約30分後、高さ10メートル以上の津波が町役場を襲った。助かったのは10人。庁舎屋上の無線用鉄塔にしがみついていた。その中に未希さんはいなかった。 遠藤さんは「(生き残った職員から)『未希さんが流されるのを見た』という話を聞いた。もうダメだと思う」とつぶやいた。> > 地震直後、遠藤さんの知人、芳賀タエ子さん(61)は「6メートル強の波があります。早く逃げてください」という未希さんの放送の声を聞きながら、携帯電話だけを持ち、着の身着のままで車で避難所の志津川高校のある高台を目指した。停電で信号が動いておらず、周辺道路は渋滞していた。高台への道路を上がる時、振り向くと渋滞の列からクラクションが鳴り響き、その背後から津波が家屋などをなぎ倒しながら追いかけてくるのが見えた。> > 芳賀さんは懸命にアクセルを踏み、数十メートルの高さの高台に逃れた。車を降りて避難所の階段を上がった。遠藤さんもたまたま避難していた。> > 芳賀さんは遠藤さんの手を握って言った。「娘さんの声がずっと聞こえたよ」

 

ソ連の侵攻時に命を賭けで住人を守った真岡郵便局の女性電話交換手と同じではないですか。> > まだ25歳というお若い方なのに。> > 涙なくしては読めません。。> > 魂の高いお方です。 合掌

 

 

 

只今!準備してます・・・よろしく ハ~イ

平成23年年明け おめでとうございます・・・

 

年明け豪雪の中を走り回った!タクシー野郎の顛末記ダァ~ィほホ~ン

例年になく大晦日ゆっくりと来し方、越すべき年の想いにひたりってるタクシー野郎に電話が入る・・・・

元旦の朝に駅送りの仕事依頼ダァ ふむ~ン!

テレビの気象予報は雪だるま ?!

エライ仕事依頼ダァなぁ~ ふむふむ~ン

まぁ~なぁ~雪も降らねば田んぼの害虫も死なないと農家のお客さんより聞いたこともある雪くらいにへこたれない田舎町のタクシー野郎・・22年の元旦が明ける前の大晦日より降り始めた雪の中走り回った腕に覚がアルヒーのタクシー野郎!

駅まで通常所要時間 20分か?~ならば~40分所要かなぁ~?

まぁ~早めに出社する事にしようか・・myブログHPに年賀の書き込みを終え弁当も二食分作り愛carのエンジンを回したのはAM:2:30すでにボンネットの上には20センチの雪だ!7時間前に積もった雪を払っていたのだが・・まだまだ雪は降ってくる・・どうも?半端な降り方ではない・・ふむ~ん!

スコップと古新聞を積み込み愛carをスタートAM:3:00

やわらかめの雪だから走っても愛carが傷つくこともないだろう~、、。

国道9号に出るまでに新聞配達のバイクとすれ違う・・まだ!どうにか走ってる・・少し安堵して国道に入る・・前方に幾台かのライトを確認する・・あっという間に追いつく・・メーターを見れば20キロか?!
追い越したいのだが片側一車線どうしよいもない!
ころあいで、旧国道に入って交わすしかない!

雪のわだちに入ったタイヤを何度か切り返し、や’やっとの思いで旧国道に入る・・・まだ一台も走ってないようだ!

新雪の上を愛carが止まらない事を願いながらアクスルを微妙に動かす、、、ふム~ン

なだらかな坂の手前になり雪は深くなってきた、、ヤバいヤバい!既にすでに愛carは腹を擦りながら走ってる。・・・やがて限界がきた。・・・

車より降りて状況を確認する。・・・・此処まで良く走ったものと愛車を誉めたい程の積雪。・・・・・

スコップでタイヤ前後と車体の下雪を掻き出す。・・・・・ついでに空気圧も減らす。・・・・・

駆動輪に古新聞を敷く。・・・・・ゆっくりとアクスルを踏み込む!動いた!今来たわだちへ数メートル後退退。・・・・・そして前進。・・・・・雪とタイヤの限界点を思いながらアクスルを踏み込む!
今度は少し尻を振ってもスピードを落とさなで走らねばと覚悟しタイヤをスリップさせて走る。・・・・・

抜けた!抜けた!…約10分の損失かなぁ~
此の後に10分どころでない時間の損失が発生するが神ならぬ身では予測できない・・・・国道9号線に出るが元旦に除雪車が働かない国道で多数の車のアクシデントに遭遇した顛末は、次の機会に。・・・