ほ’ほホ~ン 毎日あついことです、、、拙いMyブログに訪問いただき有難うございます。
皆様には残暑、お見舞い申し上げます。
さてさて、本日は広島の平和記念式典。。。
来る9日は被爆65周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典
広島県に隣接する島根県のおばあちゃん、おじいちゃんの中には原爆を被爆され現在も生きつづけMyタクシーに乗車していただき車中まるで昨日あったことのように話される御話・・・人類がその歴史のなかで一度も体験しなかった人間殺戮の兵器使用の中、生きぬけられ此処にタクシーを利用いただき運転手、、御客として出会い原爆投下の状況をお聞きできる事は、まことに有難き事実。
爆心地に近い川辺に帝国陸軍の一兵士として兵務中被爆、、、たまたま楠?の大樹の陰に居たため一命をとり止め以後、その後遺症と闘いながら生きつづけ先年亡くなられた。Myタクシー乗車の御爺ちゃん・・・・
生きる事は死より辛い・・・・ふむ~ん!!誰がこのような惨い状況を招聘したのだろうかなぁ~??
人間の救いは無かっただろうかなぁ~??
半端な人間行動理念、、哲学では、もはや人類は救われないのか?
長崎で被爆され、己も生死の境目にありながら救護活動を指揮され救護にあたる長崎医科大学の部下に「一大事は之のことなり」と、叱咤激励されたと聞く永井隆博士・・・
博士と同じ島根県出身で長崎に勉学のため博士の宅に逗留されていた温泉津出身の甥子17歳?も被爆され焼け爛れた、、その姿のまま、、、一路故郷へと生死をかけ数日を要して歩み、、そして、ふるさと温泉津で死。
荒れ狂う人間、、、人間の歴史の中、、茲に今、平和日本に我々はいる。
平和の象徴、日本三大船神事ホーランエンヤ祭りが行われる宍道湖と中海をつなぐ運河、大橋川の川辺に住まいされる御婆ちゃんに乗車していただくようになってから、幾年になるのだろうか?
身長は150センチにも満たない可愛いおばあちゃんだ。。。
例のごとくに病院からの送迎だ、、
稲の青葉をわたす風を車内に取り入れながら、ゆったりと走らすMyタクシーの中、おばあちゃんは小さな体をチョコント後部座席に預けながら話される。。
今の日本は平和で善いですねぇ!!
先の大戦には国の学徒動員令により広島の呉海軍工廠で働かされましたょ。。
機械旋盤を使い砲弾を削りました。。
機械油も無くなり旋盤は胡麻油で動かしていました、、其のときの臭いが鼻につき今でも胡麻油の匂いをかぐと余り良い気持ちにはなりませんねぇ、、!!
米軍の空襲で工場が爆撃をうけ幾人かの方が亡くなりましたが、、ご遺体をかたづけた後にも直撃をうけた人の小さな肉片が工場内に飛び散り人間の腐敗する臭いに悩まされましたょ、、、
ふむ~ん! ふむ~ん!ふむ~ん!!だ。。。
うら若い乙女であったおばあちゃん、、、日本国の国民であったために、、国により茲まで追い詰められ苦しい体験をせねば現在の、おばあちゃんはなかったのだろうか??
徴用を終え故郷の島根県に向け帰る列車は原子爆弾投下後のコンクリートのプラットホームだけが残る広島駅で長い~長い停車、、、
放射能被爆、、、
まあ、、、まあ~国はとんでもない世界へと国民を追い込んだものだ、、
どんなに賢い為政者達も信用できないかなぁ~??
おばあちゃんは当時は横になって眠ったことないと言われた。。。
剣の達人宮本武蔵も生涯を横になり眠らなかったようだなぁ~
タクシー野郎、、平和の重さを少し考えてみる観る。。ダーイ 黙祷。。
女子挺身隊のWikipedia検索結果
女子挺身隊(じょしていしんたい)は 1943年に創設された14歳以上25歳以下の女性が市町村長 町内会 部落会 婦人団体等の協力によって構成されていた勤労奉仕団体のこと 政府は翌年の1944年に勅令第519号をもって 女子挺身勤労令を公布したが
1945年3月に国民勤労動員令によって吸収されたため挺身隊は国民義勇軍に再編成された
女子挺身隊となることを地元新聞に して大きく報道させた 勤労動員署署長や検事正はこれに激怒し岡崎を恫喝したが 岡崎は引き下がらなかった しかしこの女子挺身隊員が出発する2日前 岡崎は大阪府へ出張を命じられた 出張から戻ると女子挺身隊員はすでに出発し
有力者令嬢の徴用は取りやめになっていた
女子挺身隊員75名を1週間以内に選出せよとの命令を受けた 岡崎は人選のため身上書を調べると 地位の高い有力者の令嬢はなぜか徴用されていない という事実に気づいた そして裁判所所長や検事正の令嬢らを女子挺身隊員として選出 令嬢らが女子挺身隊となることを地元新聞に して大きく報道させた
勤労動員署署長や検事正はこれに激怒し岡崎を恫喝した・・・・・
フリッカー内の写真で"Ski"に関連されている写真。